国指定名勝「盛美園」

〒036-0242 青森県平川市猿賀石林1
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盛美園の歴史

清藤家の歴史

(鎌倉時代)初代清藤次郎盛秀 建治3年(1275)没。
盛秀は、鎌倉幕府5代目の執権北条時頼の家臣であった。ときに時頼の寵姫唐糸御前は、女性達の嫉視反感に耐えかねて鎌倉を去る事になった。時頼は唐糸御前を盛秀に託し再会を約した。一行は海路十三湊に着き名野岡村(今の南津軽郡藤崎町)に居を定めた。しかし唐糸御前は時頼行脚の風聞に接し、池に身を投じて自殺した。盛秀は主命を果たせなかった責任を感じて鎌倉に帰らず猿賀の地に永住した。
(室町時代)

清藤家は、歴代農業(地主)を営みながら他方では広い地域に亘って商業を営んでいた。当家には往時を偲ばせる「そろばん」がある。その箱書に「天文十一年壬寅三月調之清藤」とあり、日本最古のそろばんといわれている。
(戦国時代)11代清左衛門 天正13年(1585)没。

清左衛門は、かねてより田舎館城主千徳掃部政武と親交があった。津軽為信が田舎館城を攻めた時、清左衛門は和睦の使者に立ったが千徳政武は武士道の義に殉じ245人全員が玉砕した。城主の妻お市の方は18歳、一子を抱え隠れ忍んでいたが遂に見付け出された。やがて津軽為信が統一事業を終えた後、敵味方合同の慰霊祭を営んだときにお市の方は祭壇の前に進み焼香を終えた後その場で自刃して果てた。当家では、その心情を哀れみ千徳政武・お市の方の菩薩を弔ったと伝えられている。
(江戸時代)20代庄兵衛 天保2年(1831)没。

清藤家は当時大庄屋を勤めていたが、7年間に及んだ大飢饉で餓死する者が続出し惨状を極めた。それを見かねて当家では蔵を開き米を施して村民の窮状を救ったという。その後も勤労を奨め、土地を開墾し飢餓に備えて米を貯えるなど、率先して事に当たり豊かな村を築いた。
(明治時代)24代盛美 大正3年(1914)没。

明治維新に際し、士族授産のため田地十町歩(10ヘクタール)を残して没収された。盛美は、農業(地主)を本業にしていたが、他方で政治的にも経済的にも活動していた。戸長や村長を勤める傍ら青森商業銀行・尾上銀行創立に参画し、やがて尾上銀行頭取になった。その一方では「盛美園」を造営した。明治三35年武学流の小幡亭樹宗匠を招き、9年の歳月を費やして明治44年に完成した。庭園は3600坪で、その一隅に鹿鳴館時代を彷彿させる和洋折衷様式の「盛美館」を建てた。
(大正時代)25代辨吉 昭和15年(1940)没。

清藤家の霊廟である御宝殿を大正6年に造営する。本尊に鎌倉時代の彫刻金剛界大日如来像を祀っている。
(昭和時代)26代盛治 昭和59年(1984)没。

昭和20年終戦、農地解放政策により大きな影響を受ける。昭和28年、盛美園が国の名勝として指定を受ける。

(平成時代)清藤家の子孫達が守り続け、現代に至る。
平成3年東北地方を襲った台風19号により、庭園と盛美館に甚大な被害が及ぶ。その復旧元事業が10ヵ年をかけて行われ平成13年に完了。入念な修復作業の結果、盛美園は造園当時の姿にもどされ、盛美館も創建当時の模様に復元された。その後平成14年に、景観保全のため庭園外北側部分の敷地が国より名勝追加指定を受け、その整備事業が平成18年より始まる。

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